2012年6月11日月曜日

当たり前って何だろう、と思う。

22歳までの私にとって、英語が話せるということはすごいことだった。how are you?と聞かれてfineと返すことさえも緊張していた私にとって、どんな会話であれ英語を話している人はとても優秀な人に見えた。英語以外の言語も喋れると聞くと、どれだけ才能がある人なんだろうと尊敬の眼差しで見ていたくらいだった。それが23歳になって、英語が話せるようになったけど、話せるようになったからといって自分がすごくなったとも優秀になったとも思えない。別に何もない。ただ話せるだけだし、それ以上でもそれ以下でもない。英語を勉強していくうちに言語自体に興味を持つようになって、フランス語の勉強もはじめて、これから色んな国の言語を勉強したいと思っているけれど、何カ国語も話せるようになったからといって自分が優秀になるとも思えない。

日本以外の国に住むことも、私にとってはすごいことだった。実際に住んでみて、大変なことはもちろんあるけれど、ただその場所で自分の人生を展開していくだけだと知った。最初は何もかも新鮮だけれど、慣れてしまえば当たり前の景色になる。初めてロンドンで電車に乗った日、人種や肌の色がばらばらの人たちの中に、日本人の自分がいることがどうしても馴染めなくて、私だけ浮いているんじゃないかとずっとそわそわしていた。それも今じゃ当たり前になったし、誰も私のことなんて気にしていないことを知っている。

すごいと思っていたことは、全部当たり前のことになって、自分がすごくなれるのかと思ったら、ちっともすごくなんかなれなくて、私は何も変わらなかった。

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ロンドンに実際に住んでみて、ロンドン在住者が言っていたこと、それが全てじゃないことを知った。ある意味では本当で、だけどもちろん例外だってあって、そんなの当たり前じゃんって今は思うのに、ロンドンに来る前は全て信じ込んでいた。だってロンドンは私にとって遠い場所で、あまりにも知識がなくて、その情報に頼りきっていた。

中国政府が国内の情報を操作していること、それは私にとって当たり前の情報で、中国人の友達が中国政府について何か言ったとしても、ずっと中国にいたから何にも知らないでしょ、と切り捨てていた。本当は私が何も知らないのに。ただ何となく集めた情報で、勝手に中国のイメージを作り上げていただけなのに。

サウジアラビア人の女友達が、サウジの女性差別について教えてくれた。女性は病院に行くにも父親や夫の許可が必要で、車を運転する権利もない。だから妹が急病で苦しんでいるとき、病院にすぐに連れていくことが出来なくて本当に悔しかった、という彼女の話を聞いて、サウジは女性差別の激しい最低な国なんだと思っていた。だからサウジ出身の男性がサウジの女性差別問題について何か言っても、私は聞く耳を持たなかった。だってあなたは差別する側なんでしょうって、何もかも受け入れなかった。だけどカザフスタンの女性が、サウジは女性差別の激しい最低な国だと彼を責めたとき、「みんながサウジは女性差別がひどい国だと思っていることは知っている。だけど誰もサウジに来たことがないよね?まずは自分の目で見て、サウジがどんな国かを知ってほしい。」と彼は言っていた。そうだった、私は何も知らないんだった。なのにたった一人から聞いた話で、サウジという国を嫌いになっていた。

私が知っていること、作り上げているイメージ、そのほとんどはたぶんネットから得た情報だ。いくつかは本当なのかもしれないけれど、それが絶対ではないかもしれない。だって何もかもそんなに簡単に言い切れるものじゃない。だけどどうしてこんなに簡単に、私は全てを鵜呑みにしてしまうんだろう。自分の目で何も見ていないのに、どうしてそれが本当かどうか疑うことをしないんだろう。私に足りないことは、色んな側面から物事を考えることなんじゃないか。

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あと10日で日本に帰る。この9ヶ月で考えたこと、まだ上手に書けそうにない。

1 件のコメント:

  1. あ、教育実習で似たようなこと、感じました。

    あやふやに感じて、あやふやに考えて、あやふやなことを信じて、あやふやなこと語ってますよね。

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